与太話はこの辺にして推しに幸あれ

他者の自由な好きを許さないひとたち

もしくは、許せないひとたち。

 

ここで話すのは推し活に関わる「好き」の捉え方についてです。

 

神推し、単推し、複数推し、箱推し……いろんな推し方、推し方を称する言葉があります。担当と称する場合もあるかな。細分化される好きの在り方が悩ましいね。

 

好きのあり方を問うというと、難しそうですが、他者の好きを許せないひとが増えたように見えている。

元々そういうものかもしれないし、あるいは、出る杭は打たれるの延長。

 

また、他人の不幸は蜜の味とか、他人の楽しそうな姿、幸せそうな姿は不快。

 

もうひとつは言葉の捉え方の差、かな。

 

生じた認識の差に、驚愕してムリだこの感じは許せない……って思ったりモヤモヤが止まらなかったりするのは、結構誰でもありがちだと思う。そこに、行動や発言が伴うか伴わないかの問題で、なにも怒ったりイラついたりしてはいけないという話ではない。

むしろわたしは、

 

もー!許さんぞー!

 

って、思ってること、たくさんあります……。その憤りについて、こう思うよって意見を口に出すことも勿論あります。ただし、怒りのまま、苛立ちのままに、気に入らない!許せない!って、個人に対して攻撃を仕掛けることはありません。

だいたい、怒るの疲れるし、考えるのも面倒臭いし、怒るより楽しいこと考えてたいほうなので、(現実逃避してたいだけです……)誰かに意見を押し付けるようなことはしないかな。

 

他者の「好き」という感情にどこまで関与して良いのか……ということを考えないといけない。嫌いとか、強烈に意識できる他の感情にも言えるかな。

 

わたしはあたまがよくないので、すごく考えても正直わからないのですが、それでもなんとなく考えてしまいます。

今は他人事でも、いつかは自分事かなって。

 

好きに対する同意。

 

これは共感にあたるので、特に問題ないと思っています。嫌いへの同意も同じく。ひとつの事柄への共通認識を持つこと、そこに共感が発生していることは、人と人は繋がりを深くしている。ある意味で共感は人間関係を円滑にするものだとわたしは考えています。

 

だって、

誰しも同意されたい。

誰かに認めて欲しい。

 

このささやかな承認欲求は、時に人と人を繋いでいく(むやみやたらと承認したり、むりに同意したり、とにかく同意!みたいのは、ある種の下心あるがゆえの行動かなって思うけどね)

 

さて、前置き長いわたしです。

ネットというツールを得たことで見えなかった部分に光が当たったり、自身の意見を公に発表(もしくは発信)できたりする場が増えたということだと思う。いろんな暗部が見えたり、意見と意見が交錯するところ。

また、ネットに伴うSNSをはじめ、個の繋がりを中心にしたツールの普及が、各個人の主張を強める一端を担っているのかな…と、思うところがあります。

 

先だっても某SNSで箱推しについての意見対立や、同担拒否などに言及しているpostや記事などを見ました。

 

それぞれ論議すべきところがあって、発信者への同意、反意、たくさんの意見があるけれど。それぞれの生活スタンスや性格、年齢により差があるものの、おおむねいくつかのパターンがあるなと思って見ました。

 

・そもそも論(他人の推し方に口出ししてて怖い)

・同意(箱推しのあり方、推しとはなんぞに言及して同意)

・反意(同意とおなじ視点で、別展開)

・みんな違ってみんないい(好きにしたら、他人のことだし)

・みんな違ってみんないい(モヤモヤするけど他人のことだからスルー)

・人様の軋轢が楽しい(野次馬根性と賑やかし)

 

などなど。

もっといろいろありそ。

 

ピースフルなひとだと、「まあ、他人の推し方なんでどーでもいいじゃん?!」に落ち着く。

わたしがわたしの思うように精一杯たのしく推してんだし、他人の口出す隙はないし。出されても知らんわ!ポイポイ!くらいな余裕ある感じ。

 

忘れがちですが、他人の気持ちや行動は、アレコレ思案したとしても変えることが出来ないものだ。人を掌握できる人はサラッとかえちゃうこと出来るかもだけど、ふつーは出来ないよね。

何か行動することで変わったとしたら、それは誰かの満足のために傷ついているひとがいるのかもって思わないといけないかもしれない。

だって、他者だから。

 

他者の意識を120%共有することはできない。

 

結果、話し合うとどこまで他者の主義主張に踏み込むのかという話になるから、いろいろ難しいんだなーって。

 

先に言いましたが、イライラしてもいいし、気に入らないと思ってもいい。

でも、気に入らないって理由で、相手に対して、お前は間違っている!その態度改めよ!ってのはお門違いで、提案の仕方が間違っているし、そもそもやり方が子どもっぽいなあ……なんて思います。

 

推し方という議題に対しての討論はありだと思います。それによって、あたらしいものが得られるかもしれないから、討論、意見交換は良い。

 

問題なのは一方的な否定、拒否からの、態度をあらためさせようとする強引な姿勢かも。

例えば意見の違う友達がいて、すごくそれには賛成できない。気に入らない、むかつく、むり!みたいな。

だから、そんなのはおかしいと否定して、態度を改めろ!と迫るのはちょっと横暴で。

もしも、その横暴な態度の中身が本当に正しいものだったとしても、それはその感情をぶつけられた人にとっては他者の意見。そして自分自身にとっては100%自分の視点なんだ。

誰かを否定する時、否定してそれをかえさせようと行動するとき、意識すべきなのは「わたしは他人の主義主張を強引にねじ曲げようとしている」ってことで、それでもなお改善を求める理由が明確でなくてはならないかなーとか、考えもする。

 

繰り返しになるけれど、人それぞれ思考は繋がってない。

 

似ているようで違っているので、その噛み合わないアレコレをつついても楽しいことないよなって思っちゃうし、よっぽどダメなら見なかったことにしちゃえば、わたしの人生に㍉程にも関わらない。

三猿になる必要はないが、時に見ないふりが出来るくらいの方がいろんなことを楽しめるかも。

 

やー、まとまらない、ふがいない。

正直一番乱暴で一番平和なのは無関心かもね。

 

関心はあるが、最大限自分の好きを、愛を尊重したのが、ある人にとっては同担拒否かもしれないし、箱推しかもしれない。好きの在り方はさまざまだ。

 

まあ、他者を気にしすぎない。

何かひとつに固執しないというか、こだわらない、こだわりすぎないことも大事かも。

所詮、他者の好きは他人事だ。

気に入らないのはしかたないけど、自分の好きに集中したほうが楽しい推し活に勤しめそう。

 

あと、自分の好きが他人の萎えかもしんないので、そこは念頭に置きつつ、認めあって楽しくやれるなら世の中争いがないよね。

 

わたしはわたしの好きを大事にしたいな。

それと同じように、わたしの友達の好きのあり方を大事に出来たらいいな。

 

それ自体がキレイゴトかもしれないけれど。あるいはこのスタンスは自分を守るための術かもしれない。

まあ、どのみち、他者の感情や行動を制御するなんてできないんだもん。

無駄に悩んだり争ったりするより、楽しくしてたいよなあ。

 

ぐるぐるぐるぐる考えていて、同じところを堂々巡りの袋小路。

答えがない。

答えは出ない。

まあ、答えなんて出るわけないか。

あるわけないかー、にんげんだもの