与太話はこの辺にして推しに幸あれ

好きのゆくえを考える

前も同じような内容で記事を立てたことがあるけど、また書いちゃう。暇じゃないけど考えてしまうコレ。

 

・物語の登場人物が好き

・演じている俳優が好き

 

同じ時間、同じものを観ていて同じように同じ対象が好きなのに、まったく視点が違う好きが存在してる。演じる人がいるという時点で齟齬は必ず生まれてくるのはわかりきったことで、それが面白いなと思ったり、悩ましいなと思ったり。

どこでも、どの界隈でも起きそうなこと。

特にね、苛烈なおたくを飼ってるコンテンツや作品でそういうことが往々におきる気がしている。なにも2.5次元の舞台だけでなく、激しく作品と、その作品の創り手を支持するひとや好きだという人を多く抱えているコンテンツや作品ならあると思う。いや、必ずある。

 

好きなものが一時的には同じはずなのに話が噛み合わない。
なにせ、噛み合わないのだ。

 

話す基準が違うだけなんだよね。

話す時にキャラのこと話すよ、俳優のこと話すよって決めて話したら多分そんなに話はズレないかな。

どちらも同じく好きなのに、どうしてこんなに見え方が違うのか。

そりゃ、人それぞれだからそうなって当たり前じゃん?て思うんだけど、根本的に違和感を覚えるのは何故だ。話をしていて共感できる所もあるけれど、あまりにも思うことが違っている。その好きは限りなく似ているはずなのに、随分と違うのだ。その噛み合わなさが、先にも書きましたが面白いと思う反面で、どこか気持ちが悪いというか、なんというか、いや、居心地が悪いっていうのかなぁ……。上手く言えませんが。

 

わたし自身、わたしの気持ちの動きもよくよく考えます。

 

わたしは今、何故推しが好きなのか。

ほんとに、推しが好きなのか。

 

それを考えていると、なるほどわたしは推しが演じているから、その物語のキャラクターを好きになるということらしい。そもそも芝居を見る基準が推しが出てるか出てないか、もしくは推しがいなくても信頼出来る好きな役者が出ているか出ていないか……なので基準が役者そのものなんだよね。

まあ、見たい基準と興味の方向性が物語を生きる推しの演技というわけ。

なにせ推しの演技が見たすぎる。

つまり、推しの演じる物語上のひとを延々と観たり聴いたり考えたりするので、自然と物語上の登場人物も好きになっていく。(なお、世の中にとってどうでもいい、わたしが彼を好きになったきっかけは?というと、某ダンスアクトです)

例えば、好きになったきっかけが物語上の登場人物だったら状況が違ったかな?と思う。

その場合、好きのゆくえ的には、(物語上の推し)のいる公演が終わったあとかな?物語上の推しを演じた俳優が別の芝居で演じる姿を見た時、どんな風に受け取るかがキーになる、みたいな。

まず、別の人生を生きてるところを観てみたいと思うか、だよね。

自分のなかにある(気持ちのゆくえ)を、ちゃんと見据えていかないと足元をすくわれるぞ、(好き)がゆく方知れずになっちゃうぞ、みたいな。

好きを勘違いしたままで無駄なお金を使ったり、使う機会を逃すとか。全部、気持ちの問題、あとタイミングなんだろうけどさ。

逆に役者はわりと気にしてない、作品がとても好き、キャラクターだけが好きみたいな方のほうが、潔くコミュニケーションがとれそう……とか思いはじめるし、キャラクターが好きな人たちだって、役者推しの人とのコミュニケーション難しいとか思ってるかもしれないからおあいこ?

 

好きなんて気持ちは、勘違いの延長かもしれないから、これも無駄な思考のお遊びだねー。

 

でもさ、同じ人の話をしてるのに話が噛み合わないのって、なんとなくせつないな、とか。

 

そんなことより今日日、推しは何をしているのか。相変わらずうんともすんともいわないが、仕事か?思い出し稽古やら、お稽古ごとか?ちなみに休みはもらえたの?……っていうか、地方公演の準備もありますね。もー、東京公演後の動向が知りたいんですが、推しのついったーちゃんは、あれとかこれとかなんとか言って欲しい(多分なにも言わない…って言ってた数時間後にスタッフさんがしゃべった)

 

連休明け、御宅並べてる火曜日の午前です。

おはようございました。